マーチングと古町パレードと楽団と


 楽団の出発点である古町パレード。このイベントが無ければ楽団うちの大学は誕生していませんし、掛けがえの無い仲間にも出逢うことは無かったことでしょう。
古町パレードが廃止されて18年。その名称すら消えつつある2024年秋、創立23周年記念誌を編集しました。その延長に、記念誌では文字・頁数の制約でおよそ書き足りないマーチングと古町パレードについて、この場において大いに書き散らかしたいと思いつき以下に記します。画像も無い(時間が出来たらいずれアップします→
20260820アップしました。個人の肖像を判別出来ない程度に解析度を落としています。今後も新しい画像等を発見したら、追加していきます)文字だらけページですが、お付き合いください。

 古町パレードは1994年に始まり2006年を最後に計13回開催された、8月下旬に新潟市体育館で行われる新潟県マーチングフェスティバルのプログラムのひとつでした。パレードコンテスト(規定演技)の部・フェスティバル(自由演技)の部終了後に出場団体等がチャーターバスで移動し、古町9番町あたりから古町4番町付近まで(いわゆる「モール」とその前後の直線、計1km弱)をパレードします。パレード終了後は古町4番町付近から白山公園を通って新潟市体育館へ徒歩で戻ります。


マーチング会場となっていた新潟市体育館(20260630撮影)

 個人的に1997年から2006年まで古町パレードに連続10回出場した経験から、マーチングと古町パレードの魅力、それを追求し続けた西高吹奏楽部とバス移動の弊団の想い出を最大限にお伝え出来ればと思います。



 
1997年、私は高校(新潟西高吹奏楽部)1年生でした。7月下旬のコンクール地区大会で敗退(この年から県大会進出枠が減少し、西高としても「初」もしくは10数年ぶりの「地区止まり」)し、夏休み早々に夏休み期間中の部活動予定がガラ空きに。そこで顧問のK先生(現楽団最高顧問=学長)の思い付きで、K先生と懇意のO先生率いる新潟第一高校と合同で古町パレードに出ることになりました。当時の西高吹奏楽部にはその地元である内野中出身部員が多く、当時の内野中は県内屈指のマーチング強豪校であったことから、マーチングに取り組む「素地」はあったようです。

 パレードは基本的に前進演奏(フォワードマーチ)と停止演奏(マークタイム)の繰り返しなので、先頭で全体を指揮するドラムメジャーの指示を注視していればそう難しいものではありません。しかし、行進しながら演奏するために暗譜(楽譜を見ないで吹く・叩く)は必須、また当然に歩きながらの演奏(吹く・叩く)の技術が必要となります。暗譜と歩きながら演奏は、本気で覚える(というか夢中で繰り返し吹きまくる・叩きまくる)と意外に何とかなります。この年の演奏曲はカールキング作曲のマーチ「1」と「6」
※(マーチ集番号1番と6番、曲名は UNITED NATIONS と NIGHT FLIGHT ですが、どっちが1でどっちが6かは失念。ちなみに1と6を同時に吹いてもマーチが成立します)。第一高校さんはマーチングコンテスト(規定演技の部)にも出場しており、そこに古町パレードでは西高勢も加わることから、この合同バンドは相当な大編成であったことが思い起こされます。

※20260820驚愕の事実が判明します。
「キングのマーチ」で検索をかけたら、
 
UNITED NATIONS 曲番「15」
 NIGHT FLIGHT 曲番「
9」
でした。

1 - Aces of the Air
2 - Bombardier
3 - Burma Patrol
4 - Call to Victory
5 - Coast Guards
6 - Flying Cadets
7 - Gallant Marines
8 - Liberty Fleet
9 - Night Flight
10 - Pan American
11 - Pursuit Squadron
12 - Sky Ranger
13 - Thumbs-Up U.S.A.
14 - Torch of Liberty
15 - United Nations
16 - Wings of Army


 じゃあ、通称「キングの1・6」って一体何の記憶だろう?(もしかして"一六タルトの呪縛"がまだ尾を引いてる?)



 当日、西高吹奏楽部一同はコンテストとフェスティバルを観客席から見学しました。おそらく顧問のK先生はこの時点で、来夏のマーチングコンテスト参戦を目論んでいたのでしょう。それを知ってか知らぬか、部員はみんな真剣な眼差しで、30m×30mのフィールド上いっぱいに繰り広げられる各校のフォーメーションに釘付けでした。一巡目新潟国体時(当時で35年以上前)に建てられた新潟市体育館の客席は独特のデザインで客席はギュウギュウ、正に衆人環視の舞台。来年はあのフィールドに立つのか、しかもトロンボーン(私の楽器パート)は先頭か、と、マーチングは未知の世界である私個人として大きな不安を抱く時間でもありました。


プログラム最終ページの過去記録に「第一・西高連合」
これが後の楽団結成の布石・きっかけになるとは…


 そして古町パレードへ。当時のプログラムによると正式名称は「新潟第一・新潟西高校連合」。両校の奏者が入り乱れた(もちろん整然と編成していますが)隊列です。両校で同じ曲を奏で、同じ歩幅で同じ隊列でパレードしているのに、先ほどまでの規定演技で観客から脚光を浴びていた隣の第一高の奏者がまぶしく見えたことは言うまでもありません。そんな記憶が残っている97年の古町パレードです。

 コンクールと異なり、マーチングの大会では毎年出場生徒全員に朝日新聞社の社名が入ったシャーペンが配られていたのですが、私は現在でも愛用(縁起かつぎの勝負シャーペンに)しています。


何となく好きなシャーペン(朝日新聞取ったことないけど)

 そしてその約3週間後には地元・内野まつりで約3.8kmのパレード。内野の中心地である内野四ツ角をレフトフェイス(左折)4回。北へ東へ南へ西へ。これ、秋とは言え残暑に距離に結構キツいパレードなのですが、ここで持久力・精神力が鍛えられたことは間違いありません。


 
1998年、私は高2。前述の通り、西高はマーチングに力を入れることになります。体育祭開会式でのフォーメーション、全国高等学校総合文化祭(鳥取県鳥取市)でのパレード出場、お盆直前のマーチング合宿、そしてマーチングフェスティバル規定演技の部出場、おまけに同自由演技の部出場、と盛りだくさんの「マーチングの夏」でした。

 前年に続きコンクールは地区大会で敗退し(「カルミナ」の夏、余談ですがそれまで「カルミナを自由曲にした高A出場校は支部(西関東)大会まで進む」というジンクスがあったようなのですが、無念)、夏休み早々にマーチングシフトに入った形でした。黒川村胎内(当時。現・胎内市)での夏季合宿は「マーチング合宿」、宿舎付属の小さい体育館や近くの凸凹地面のラグビー練習場(?)、通し練習用に荒川町(当時。現・村上市)の体育館まで移動もしました。

 ここまでマーチングに力を入れたのには、この夏の大会から「過去にマーチングで支部(西関東)大会に出場していない学校(1校)を、西関東大会に推薦する」のような(ざっくりと記憶)、"特別枠ルール"が設けられた背景がありました。西高はこの適用校(マーチングでの支部大会出場経験なし)であり、他の高校はほとんどが出場実績あり("特別枠"の適用外)とあって、西関東大会へ繋がる大チャンスでした。

 私はトロンボーンを吹いていたので、マーチングの隊列では先頭です。トロンボーンの楽器形状(スライドが前に突き出す)から、規定の外周をはじめ演技中はトロンボーンに倣って後方の隊列がついて来ることが多く、隊列を引き連れると共に審査員・観覧客からの目が集まりやすいポジションとも言えます。ドラムメジャーの勇姿を間近に見れたりその号令指示に直動出来たり、常に前方に開ける景色はいいんですけどね。おそらくマーチングでの先頭列経験者なら共感してもらえると思うのですが、特に1stトロンボーンはフォーメーションを作る指導者(講師)の指示を受け、それを隊列に伝達する役割もあって、これが結構大変なのです。

「先頭列フォワード16。1stはプラス2。3、4でライトフェイス、フォワード2のマークタイム12足し。2ndはプラス4進んでライトフェイスで2、フォワード4のマーク8、3rd以降前進6、8で同じ。ライン上に揃ったら1stにフォローザリーダ、右足の切り替えし入れて。10使って1stからポイント手前1、3、5、7の位置に一直線、そこからすぐベルアップでサイドマーチ。Tp列は20前進の後にマークタイム12入れてそこから前列と同じ動きで。でもクラ列からは…」


30年近く経つのに何で取ってあるのだろうか?
当時の情報処理能力の低さが心配になるほどの乱筆楽譜


 外部から招へいした講師によるフォーメーション作成はずっとこんな様子で(学生の時の指導者とゴッチャになっていたらごめんなさい)、メモとか手の甲は指示の記録ですぐにまっ黒。延々と算数・英語・体育・音楽のミックス「授業」と、後列に伝達する「通訳」が続くわけです。本当に自分の後ろにしっかり隊列がついてきているか、ぶつかったりしていないか、自らの動作に注意しつつも常に冷や汗ものなのです。でもね、本気で取り組めば何とかなるみたいです。体育館で、グラウンドで、「ドーム」(西高が誇る当時は珍しい屋内グラウンド=舞い上がる土で楽器が砂だらけです)で、フォーメーションを体に染み込ませるほどに反復練習した記憶があります。それにしてもマーチングってよくできているもので、楽譜とフィールド上のポイント、そして動作と曲がリンクするなんて感動ものですよね。そして身に染み付いた歩幅「62.5cm」、生活や仕事でたまーに役立つことがあります。


顧問?マーチング係?が配布してくれた図表
(自分の動きをまとめる用だと思います)


「白紙かよ!俺、不良じゃん」と思ったら…


きちんと書き込んでました(俺、優良じゃん)


ちなみにメモの裏は校内お便りでした


その記事によると5月の遅刻者数延べ1223人(全校不良じゃん)


 マーチングの本筋の話とは少し脱線しますが、マーチング特有の「現象」?「対応」?に、「ダミー」というものがあります。本来その楽器の奏者ではない奏者(部員)が、不足しているパートの楽器を持って隊列に加わって、同様に演技を行うのです。音は出しませんが、隊列を組んで行進・演技する、見栄えを重視するマーチングには非常に重要な存在です。

 この98年はトロンボーンが3人しかおらず先頭が4人横列を組めません、そこでダミーを1名加えることになりました。そのダミーの1名が、つい先日まで吹奏楽部を引率していたY前部長(3年生の先輩)でした。前部長がダミーですよ、これはもう恐縮恐縮恐縮ですよ。例えがおかしいかもですが、つい先日まで第一線で国を動かしていた総理大臣が退陣後、一兵卒の一議員となって委員会で質問したり最前列の議員席(通例では当選回数や役職経験に応じて席は後方へ)で本会議に出席しているような、強烈な違和感が先行・圧倒するインパクトがありました(←伝わります?)。コンクールを以って引退の道もある3年生ながらそれをせず、前部長ということを微塵も鼻にかけること無くダミーとして先頭列、しかも小柄なご本人には決して軽くないトロンボーンを持って一緒に汗を流して大会に挑んでくれたY先輩(もちろん他の先輩方もですが)には、四半世紀以上経った今でも尊敬の念を忘れることはありません。そして休憩中に、「ホントは吹けるんだよー」とトロンボーンでB♭ドゥアの音階を周囲に吹いて見せてくれた時、Y先輩のこのユーモアに満ちた瞬間と人柄は私個人、またトロンボーン奏者の端くれとしても何とも表現できない感動に打ちのめされました。全体では隊列の中のたった1人、役割や技量は違えど隊列では一人ひとりが立派に役割を果たす大切なプレイヤーです。(すこしズレれてるかもですが)こういうことが実感できるからこそ、マーチングって素晴らしいと思うのです。


こういうのも、取っておくものですね
(こんな役立ち方をするとは)


 そしてどこかで"特別枠"を意識しつつも、全力を尽くした大会の結果は… 規定演技の部「銀賞」、自由演技の部「優秀賞」、かつ"特別枠"での西関東大会への出場は叶いませんでした。例の"特別枠"は(私的な記憶の限りでは)前年の97年から自由演技の部に出場した妙高中学校へ。余談ですがこの妙高中学校、その後のマーチングでの活躍は目覚ましく、以降は西関東大会の常連校となります。そして現在も、県吹奏楽界隈では「妙高(妙高高原)と言えばマーチング」が定着しており、当時"特別枠"を設けた吹連には先見の明があったということでしょう。



 
1999年、この年の新入部員は「豊作」で21名、部員総勢48名でやっと他校と肩を並べる規模でコンクール高Aに「K点」と「幻想交響曲」で挑むも、3年連続銀賞・地区大会敗退。上級(西関東)大会に繋がる舞台、残るはマーチングのみ。蒸し風呂状態の大体育館は勿論、通し練が出来ない小体育館、灼熱地獄のグラウンド、スモーク演出かと思うほど砂埃舞い上がるドーム、基本動作とフォワードマーチ専用練習場の屋上、いつの間にか下校生徒のギャラリーが集まる教職員用駐車場、そして運動会系の部活が終わった後の大体育館での夜間練習もありました。ちなみに30m×30m(たしか西高大体育館での限界は25m×30mだったかな?)のフィールド作成(ポイント打ち)、これが結構苦戦するもので、どんなに正確に作ろうとしても必ず誤差が出るものです。なかなか出来上がらないフィールドに顧問K先生からの(愛ある)怒号が響く中、板目を基準点(線)にしてその枚数でフィールドの正確さを裏付けたり、メジャー使用に並行して予め5mに区分けしたロープで外枠を引いて時間短縮を図ったり、対角線(斜線)ロープを設けたりして一刻も速く・正確に線引きするための知恵を絞りました。

 前年に続き、同じ外部講師からフォーメーションの作成と演技指導を受けました。実はこの講師のY先生、私個人は中学校の吹奏楽部でもコンクール指導でお世話になっていました。その時は50分の1の奏者に過ぎなかったわけですが、西高でのマーチング指導では前述(98年)のように、先頭列かつ男子となれば「御用聞き」のごとくY先生の指示を一身に浴びることに。しかも2年目とあってY先生にも名前を覚えられて、「はいっT君(←私)」、「T君、ちょっと来て」、「T君、伝えてきて」的な具合でそれは大変なのですが、妙な心地よさもあるものなのです。(表現に語弊があるかも知れませんが)言わばホワイトカラー系のコンクールに対してブルーカラー系のマーチングと言いますか、「静」に対し「動」、「受」に対して「返」みたいな、まぁ上手く表現できないものですが、でもおもしろいのですよ、マーチング。ちなみにY先生は、楽器を構える号令「Horns Up(ホーンズアップ)」を「Set Up(セットアップ)」と言うこだわり(?)をお持ちで、これは後の楽団うちの大学のマーチングの号令にも受け継がれることになります。

 西高と同じ地区にある内野中学校はマーチングの先進校であり、私の同期や先輩に多かった内野中出身部員はマーチングの動作がとても美しいのです。基本動作は言うまでもなく、そこに加わる装飾的な「予備動作」が鍛錬された「内野ブランド」を醸し出していました。マーチング歴が浅い私には一朝一夕では身に付かない「予備動作」。ここに目をつけ、日常生活でも取り入れることにしました。授業で教科書を開く時に半拍溜めて、雑談の中にも強弱(緩急)付けて、自転車に乗る時も一度ペダルに力を入れて緩く漕ぎ出す、とかしていました。←バカですね。もちろん「内野ブランド」の所作(動作)には敵うわけもありません。

 規定演技には課題がいくつかあるのですが、その中でも私が一番好きなのは外周でした。余談ですが、大学生時、マーチング経験のある(しかもアジア大会広島での主指揮!)友人が西高の卒業アルバムを見て、「体育館広いね」と驚かれました。日常すぎて気付きませんでしたが、たしかに外周含めフィールドの通し練習が自校で出来る公立校は、郊外で敷地だけは広いマーチング練習に恵まれた環境だったのかも知れません。

 さて、先頭列の醍醐味と言いますか、外周中の最前列は先述の通り何と言っても景色がいい。そしてドラムメジャーの指示動作を直で受ける・笛での指示を直近で受けられる(体裁ですが)ので、常時「隊列の最前線」を意識できるのがいいですね。25年後の今、ネット上で規定課題を確認したところ、課題には常に隊列の全体または一部が動いている外周の他に、3列以上の隊列が180度ターン(Uターン)、全員マークタイム32歩間以上とありました。たしかにこれらの課題、当時もありました。全員マークタイムは当時64(現在の2倍!)でした。しかしカンパニーフロント(全員は横一線に並んで前進)は課題では無い(無かった?)ようで、どの団体も取り入れるのは最大の見せ場であるということなのでしょう。あと、後年に禁止されることになりましたが、当時はドラムメジャーがメジャーバトンをボンボン投げていた時代。あれは盛り上がるんですよね。演技中で楽器を吹きながらも横目で見ていて、DМがバトンを上手く投げてしっかりキャッチして敬礼した瞬間の「アガりよう」は半端ではありません。あくまでも個人の感想ですが、あの「キマる」マーチングがあるいい時代だったと思います。

 (ごめんなさい、マーチングには直接関係のない汚い?内容なので、興味の無い方は以下の
茶色…いや緑色の文章は読み飛ばしてください)

 
そして99年のマーチングと言えば、個人的に絶対に外せない話題が白根カルチャーセンターでの練習(というか移動)です。これは楽団うちの大学の絡みでいつかは、どこかで、文章として残しておきたかったものなのですが、まさかここで…まぁいい機会なので無理矢理この場にねじ込ませていただきます。

 マーチング県大会が迫った夏休み後半。2・3年生の男子は合唱部の手伝いでNHK学校音楽コンクール(現「Nコン」)に出場して、3年連続となる金賞・県代表を獲得しました。本業の吹奏楽部ではシルバーコレクター(銀賞三昧)であった私たちが、当該音楽コンクールでは県内高校で1校しかない正に頂点の金賞受賞、その盛り上がりに浮かれ騒ぎ、下校後は男子有志で食べ放題の焼肉屋で祝勝会になりました。ご飯(白飯)や野菜、飲料が別料金ということもあり、17、16歳の男子だけの食べ放題の焼肉コースと言えば肉、肉、肉、肉、水、肉、肉… (←もはやどの部位の肉かもわからず、ひたすらとにかく肉)。肉と水だけで「酔っ払える」のは若さの特権でしょうか?心も身体も満腹で帰宅。

 高揚感そのままに一夜明け、翌日は早朝から白根でのマーチング練習。登校するとすでに白根に向かう貸切バスが待機中。全国津々浦々、高校の部活で共通かとも思うのですが、3年の男子(吹奏楽部は男子全体となるのかな?)ともあればバス席の定番は「キング(カズ)シート」(最後方の5人掛け席=この頃のサッカー日本代表バス移動時のカズさんの席)です。しかしこの日、私は遅刻ギリギリに到着したこともあって、バス席のほとんどは先に乗車した部員ですでに埋まっており、当該「キングシートエリア」のバス後部とは対称的に離れた最前列席に飛び乗りました。男子の大半は先に乗っていて、いつも通りにバス後部の「キングシートエリア」に。前日の快挙を男子一同で改めて喜び合いたかったのに離れてしまって残念と思いながら、白根(所要約30分)に向かってバスは動き出しました。

 約5分後。あれ、何かおかしい。腹、痛いぜ。やばい、ぜ。そうなんです、前日の暴in暴食(「飲」が無く、とにかく口に「in」)が祟って、私の腹が全壊状態だったのです。そう、「GERI」です、ダムで言えば水をタップタップに溜めた決壊寸前の。そこに加えて残暑の折、クーラーガンガンでギンギンに冷えたバス車内。ジトーっと額から滲み出す冷汗、ポツポツと鼻先から吹き出す油汗、パッとさいでりあは小林亜星、汗って焦っても止められないんだな~ これがアセットマネジメントなんだなー とか思ったか思ってないか、とにかく気を紛らわせることに必死で。そして先輩の威厳(?)を守るために平静を装う私。30分弱の移動にトイレ休憩などあるはずもなく絶望しつつ、一刻も早く白根に着いてくれ、あー黄色信号で止まるなや、前の車最低速度違反じゃね(免許持ってないけど)とか、とにかく目(もちろん白目)で受け取る情報すべてが予断を許さない自身の腹に直結する過酷な状況。この瞬間に出来る最大の防御は腹を温めることだと気付き、クーラー吐き出し口をさり気なく逸らしたり、動物的直感から手元にあった薄っぺらい楽譜を1、2回折り曲げて腹を覆ったり、靴ひもを結び直すふりをしてかかんで腹を温めたりの最大の防御?をしました。何も知らない隣の後輩からは「ガム食います?」とか、後方の「キングシート」からは「ここって前に来たよねー?」(←春に廃止直前の新潟交通電車線に乗りに来た)とかのんきな問いかけが飛んできたりで、「そだねー(心の中では「君のお腹と替えてくれない?」)」と返すのが精一杯。17歳にして、ここで人生最大の危機を迎えるとは、至極無念。バス移動の30分は走馬灯のように… (中略) そしてついに、ついにバスは目的地の白根カルチャーセンターに到着。PHSが鳴ったふりをしてさり気なく一番にバスから飛び降りて(本当にマリオ兄弟のようなダッシュ姿勢での飛び降り方だったと思います)トイレへダッッッシュ!火事場の何とやらは脚力(多分、便所ベン・ジョンソンにも勝ててた)や直感力(きっと、ゲリ・ユラーもといユリ・ゲラーを超えた超能力)にも直結するようで、初めて使う施設ながらもトイレの位置に最速&ピンポイントでたどり着けるものなんですね。しかも自衛隊の爆発物処理班出動級の「爆弾」を抱えながらの集中力と慎重さを要求されながらですよ。そして間に合いました!私は勝者です!私の人生は今から始まります!それを祝すかのように、施設内有線では太陽とシスコムーンの「宇宙でLaTaTa」が流れていました。生涯忘れられない一曲です。その後、後輩がメジャーバトンを借りてドラムメジャー扮する香田晋さんのCM「唐揚げおいしっくつっくるならーモミモミ~」(フニクニフニクラの旋律)を真似てふざけていたのですが、これは「己との戦い」の大勝利を記念する凱旋曲になりました(フニクニフニクラ=富肉に負憎ら)。
その後のバス移動では、後輩から「Tセン(←私)、一番前の席座る?補助席にしとく?」といじられるのが定番でした。見事な程に、キングシート陥落。

 それで、何が言いたいかというと、もしこの時いつも通り「キングシート」エリアに座っていたら、補助席まで使っているバス内で即行降車できるはずもなく、後方の非常ドアから脱出したり、最悪凄惨な「自爆GERI」もとい「自爆テロ」を起こしていたかも知れません。そうすると高3の夏になって、正に晩節を「汚す」この「失脚」は免れず、後年に楽団を作ろうなんて発想も出なかっただろうし、集う奏者もいなかったはずです。こんなことで、「今(楽団)がある」ことは「バス席」のような身近な選択である「偶然」と、バスがもう1つ信号に引っかかっていたらどうなっていたかわからない成り行き次第の「運命」による紙一重の「奇跡」から成り立っていることに気付かされ、またそれを忘れません。だからこそ、何があっても何を言われても「元々無かったかも知れない楽団だし」という感覚を持ち続けることができているような気がします。ちなみに一時期楽団の配布物に表記していた「野菜も食べないと失脚しちゃうよ」は、感動や盛り上がりの延長に悲劇が待っているかも知れないよ、文字通りの「急降下」があるよ、という戒めであり、ここ(1999年夏)が原点です。どうぞみなさんもお気をつけて、野菜も食べてください。


 と、何の話でしたっけ?野菜の偉大さ…じゃなくて、99年のマーチングでした。キングシートは陥落したものの失脚することなく後日、新潟市体育館での本大会に立つことが出来た私。当時の出場校は多く(プログラムによるとパレコンは中高で計12校、ここにフェスの中高が加わるわけですから大会開始前の会場周辺は所狭しとあちこちで各校・団体が露天演奏。入場券を持っていなくてもこの風景だけで十分楽しめたことでしょうね)、リハーサルに類するフィールドでの「ポジション確認」はドラムメジャーと先頭列(トロンボーンパート)のみが出て、全校もしくは複数校で一斉に行いました。同一のフィールド上を複数の団体が共有して動くわけですから、当然にして他校との予期しない接触があったりします。しかし、例示は変ですが、私の中学校時代はJリーグ開幕直後だったので、サッカーの盛り上がりはすごいものがありました。昼休みはほぼ全クラス男子がグラウンドでサッカーしてたんですよ。3学年×8クラスでしたから単純計算で24試合(クラス同士の対戦もあったので実際はその2/3くらいの16試合で300人くらいでしょうか)、それが同時に同一グラウンド上で「人口過密」のサッカーをしていたのですから、このポジション確認なんて通勤ラッシュ前の始発のようなものでした(なんてね)。他校は観客席の部員から細かく指示が飛んでいましたが、我ら西高はそのような事は無く、5名で淡々と外周や演技のフォーメーションを通しました。今振り返えれば、フィールドと客席(俯瞰する部員)のやりとりから勝負は始まっているのかも知れませんね。


ステージ前の上手から入場(待機は体育用具室のような場所)

 規定演技開始前、速やかな入退場の要請からか、現在ではフィールド上の各奏者のポジションにワーっと駆け足で集まるのが主流になりつつある気もしますが、当時は隊列を組んで前室(フロア前の昇降口)から入場する形が一般的だったように思います。

 静寂に包まれたフロア(体育館)内。厚い扉が開き、まるで神器のように厳かに(胸元で垂直に)楽器を持った隊列の入場と共に、沈黙の中で響き渡る唯一の音はスネアドラムもしくはマルチタムの乾いたリムショット。二分打ち2コと四分打ち2コ、「カッ、カッ、カッカッ・・/カッ、カッ、カッカッ…」。時に観客席から送られる「~高(中)ガンバ―」「~(固有名詞)しっかりー」等の声援。そして前進停止(もしくは方向転換と停止)を予令する四分打ち4コと停止拍3コ「カッカッカッカッ/カッカッカッ」、静寂。あくまでも(私)個人の感想ですが、審査対象外の動態ながらもここがマーチングにおける緊張感・高揚感の75.8%くらいは占めていると思うのです。この瞬間だけは、いま思い出しても身を研ぎ澄まされるような、そしてじわりと涙してしまうような感覚があります。
ついでに言えば、個人的に応援しているサッカーチームの応援で、戦況(攻め)が硬直している時に観客席から放たれる「オイ ・ ・ ・ オイ ・ ・ ・ 」( ・ は手拍子)という叱咤(?)応援があるのですが、これが前述の「カッ、カッ、カッカッ・・」のリズムに似ていて好きです。

 
満員の観客席と審査員席(西側)から熱視線を受けました

 この夏のコンテストの曲は、マーチファンのみならず知る人ぞ知る名曲マーチ「Army of the Nile(ナイルの守り)」と映画音楽の「The color purple(カラー・パープル)」。外周するに相応しい勇ましいマーチと、フォーメーションの演出に適する表情豊かな映画音楽でした。とは言っても当時そんなことは知るはずもなく、今では検索で一発で聴き憶えのある旋律が直ぐに甦る、そして関連情報はもったいないほどに溢れ出す、便利な時代になったものです。

 やっぱり隊列の先頭は清々しいもので、明治生命(当時)のグッドサウンド賞って一体何?ってほどに思い切り吹き散らかせるのはマーチングにおけるこのパートかつ先頭の特権だったのでしょうね。(正直、演技中の記憶はあまり無いものなのです)


演技終了、フロアを退出後そのまま外に出て大階段で写真撮影

 この年も前年に続き、学校体育祭の開会式用のフォーメーションでフェスティバル(自由演技)の部に出る予定でしたが、本番日間近になってK先生が「もう、コンテスト(規定演技)一本だ」と決断し、当該自由演技の部への出場を辞退することになりました(プログラムには記載があります)。出場校数増加に伴って上級大会への出場枠が増える「吹連の事情」もあって参加を組んでいたようなのですが、吹連の役員でもあるK先生がこの「事情」を翻して自校の規定演技を優先、いや、「吹連 < 西高」で勝負を懸ける本気を魅せた決断でした。当時は何となくそういうことか程度にしか感じていませんでしたが、四半世紀経った今、この場を借りてK先生のその気概に心からの敬意と感謝をお伝えしたいと思います。



 
プログラム規定演技と幻の自由演技(何故か人数がちがう)

 規定演技を終え、自由演技を観て古町パレードへ。演奏曲は演技とはちがうマーチ(多分、前述と同じ西高定番「キングの1・6」※審議)でした。この演技用とパレード用で演奏曲を使い分けられるあたりが、学校の部活のならではの贅沢「分厚さ」を感じませんか?
各団体がその絶妙な「時間」と「場所」を共有する、フィギュアスケートのエキシビション的な要素のある古町パレード、これが良いんです。何でしょうね、闘いの後のノーサイドと言いますか、でも審査結果(表彰式)はまだなので「停戦状態」とか「緩衝地帯」とでも言いましょうか。闘(戦)いには付きものの勝負ですが、それを成立させる最前提として求められる、マーチングに関わる者同士のリスペクトが詰まっている古町パレードでした。

 古町パレードを終え、新潟市体育館に戻り審査発表。結果、銀賞ながら先述の"特別枠"をいただいて西関東大会出場を決めました。K先生の「最後に繋がったと思う」との言葉と安堵の表情がとても印象的でした。遡れば97年入部組の私たち同期世代は一度も上級大会に進むことが出来ず、最後の最後にこのマーチングで西関東大会に繋がりました。

 それで、どの学校が"特別枠"の対象(過去に西関東(関東)大会への出場経験がない学校)であったのかと思い、調べてみました。当時の記憶では、K先生が城東中の生徒さんが乗ったバスの到着を見て「今日の最大のライバルの到着だぞ」と仰っていた記憶もあるのですが、便利なことにマーチング県大会のプログラムの最終頁には第1回からの出場校記録が載っているので、それで調べた結果がこちらです。

[各校のカッコ内の年は1999年時点での直近の西関東大会出場年。○は1999年県大会での西関東大会進出校]

1999年規定演技の部出場校
・上山中(なし)
・木戸中(なし)
・城東中(1996)
・西川中(1998)○
・松浜中(1997)
・内野中(1998)○
・分水中(1998)○
・新潟商業高(1998)○
・日本文理高(1998)○
・新潟第一高(1998)○
・新発田中央高(1996)
・新潟西高(なし)○

自由演技の部
・松浜中(1997)
・木戸中(なし)
・妙高中(1998)○
・吉田中(1998)○
・中越高(1998)○
・高田北城高(1998)○

 ということで、西関東大会出場経験の無い"特別枠"対象校は、上山中、木戸中、新潟西高の3校。上山中は第1回(1994年)の古町パレードから参加しているものの、大会(規定演技)にはこの1999年が初出場でした。木戸中は第2回(1995年)古町パレードに初参加、翌1996年の規定演技から連続で出場していました。西高は1996年規定演技、1998年に規定演技と自由演技に出場していました。というわけで、1999年の"特別枠"の争いは三つ巴の構図だったようです。ちなみに翌2000年県大会での西関東大会進出校はいずれも過去に西関東大会出場経験があることから、この"特別枠"は私たち西高への適用を最後に早々に廃止されたことが想像されます。

(241115追記 気になって現在(2024)のマーチングフェスティバル新潟県大会はどうなっているのかなとネットで検索してみたら、既に部門は再編されていて中学校A、中学校B、高校以上A、高校以上Bの4部門(ざっくり区分すると、Aは旧パレコン、Bは旧フェスティバルに類するようです。Bは全国大会がありません)、各部門に1校(団体)ずつ出場し計4団体の出場。その全てが金賞かつ県代表でした。どの時代がどうとか単純に比較はできませんが、中高入り乱れて計16団体でしのぎを削っていた98・99年大会、下剋上(?)の"特別枠"設定も含めて乱世「マーチング戦国時代」を経験出来たのは、何とも幸運だったとしか言いようがありません。同時にその背景や理由は様々と思いますが、現在に至る各校・各団体のマーチングからの撤退即ち「マーチング界の縮小」には、一抹の寂しさを覚えます)


これまたフォーメーションメモの裏紙より
「県大会の入場券代、ユニフォーム代未納の人は急いで顧問に出して下さい。」
うち大の"だらしなさ"の原点を見つけた感覚です


 この年の西関東大会のことをさらっと記します。大会は10月上旬に上越市で行われました。新潟、埼玉、山梨、群馬と、県内外のマーチング強豪校が集う中、西高は銅賞で大会を終えました。今振り返れば、私自身3年生(事実上の引退後)ということもあって、またこの翌月には受験も控えていたことから、県大会時の熱意を失っていた気もします。当時、"特別枠"設定の経緯・目的やK先生の本気、そしてマーチングの魅力を整理して捉えることが出来ていたなら、それは「全力」をつくったはずです。例え引退をした身であることで後輩をはじめ他部員に引かれても煩がられても、全体への「火付け役」になって発破をかけ奮起を促すことが出来たのであれば、結果は何とか銀賞の「シルバーコンプリート」で完結出来たのでは、と。今でこそこの楽団のおかげであれこれ言われることや「うるさ方」にされることに慣れ過ぎてしまい、逆にそれが何かを動かす・始める新たな活力源にさせてもらっているわけですが、高3時のお豆腐メンタルじゃそうは捉えられず、周囲の目や「行動する」ことが怖かったのかな、とか25年前の自身を振り返ります。上記K先生の英断や"特別枠"の絡みもあって、この西関東大会は特に「忘れ物」のように、当時は勿論、今でも心残りがあるわけです。しかしながら翌年になって、この「心残り」があることが実はとても幸せなことであることに気付きます。


西関東大会のプログラム さすが支部大会!写真とコメント入り


 2000年、私は進学で松山市に引っ越しました。松山はお城を中心に暮らしやすいコンパクトシティを形成しており、その最大規模の繁華街に「大街道」と「銀天街」があります。この全天候型アーケード街が、妙に古町モールに似ているのです。ここに着想を得て、「夏、新潟に帰省したら同期で古町パレードに出よう」と思い付きました。同期だけでは楽器や奏力が不足するので、母校西高と合同で。それは先述1997年の新潟第一高・西高合同バンドでの古町パレード出場経験があったからこそ、出場の発想自体も含めてこの思い付きに至ったわけです。当時はPHS⇔携帯電話の通話料が異常に高くて、加えて遠距離なもので、緑の公衆電話から新潟の同期生に連絡を取った記憶があります。

 この「古町パレードに出よう」の思い付きや伴う行動の根底には、前年の西関東大会での「心残り」があったことは言うまでもありません。「心残り」、発想や行動でどんな形にも変化・作用することを学びました。

 このあたりのことはある企画に連動し、こちらで別記していました。

 このパレード、私たちの乗った各団体乗り合わせの貸切バスが古町への移動中、運転手さんが道を間違えてしまい(当時の古町は幅広の道路でも一方通行が多くて、ひとつ間違えて曲がるところを通り過ぎると特に大型車両は元の道への復帰が難しく、万代橋を渡ることになってしまう)、万代シテイ前の大通りで180度大転回(マーチング的にはアバウトフェイス)するという貴重な経験をしました。この他にも、新潟市体育館で待機中のバスでバスガイドさんが運転席に座って、運転手さんからレクチャーを受けながら駐車場内を大型バスの運転練習?お遊び?していたり、いずれも今では間違いなく「大炎上」になるのでしょうが、当時は長閑というか牧歌的というか、「コンプライアンスってどんなアイスの味?」級のいい時代でした。まだたった20数年前のことなんですけどね。
 こんなイレギュラーもあり、私達(たぶん男子勢)や他団体が乗り合わせたバスは遅刻しながらも無事古町9番町付近に到着。女子勢から「どうしたのー?」と聞かれるも、「ちょっと新潟の観光にね」と。万代橋を渡れば、それはもう立派に新潟の観光の成立ですよ、本当のことだもんね。

 演奏曲はおそらく定番の「キングの1・6」
※審議だったことでしょう。西高は私たちが3年生当時の1年生が2年生になって部は代替わり(3年生は引退済)していて、西高メンバーをまとめてくれました。前年の熱い夏を共に、そしてほんの数カ月前まで定期演奏会(奇しくもこの年だけ会場は古町の市民プラザでした)を一緒にやった間柄だから、何も違和感なく行進したことでしょうね。いい夏の想い出が出来ました。



 2001年、前年に続いてこの年は前年度(この春)西高卒業の部員を中心とした編成で古町パレードへの出場を目指しますが、これだけではまともなパレードにはなりません。そこで西高吹奏楽部に「うちの大学設立準備室」名で協力のお願いの手紙を出し、現役生に参加者を募った記憶があります。実はこの「手紙案」、当時西高3年生の01017さんと私で繰り出したアイディアでした(01017さんは当初「ビデオレターで」と言ってましたが、これはさすがに)。前年はおそらく西高部員全員による参加だったかと推測しますが、この年は「うちの大学」という新団体を作ったことから、現役生にも「あくまでも任意での参加」として募りました。01017さんは7名の現役生を率いて、99・00年度卒の11名に合流してくれました。実際に現役生(現役奏者)7名の合流は、通して曲を成立させるためには不可欠な存在でした。なぜならば、卒業生OB(男)5人中の3人が何故か現役当時の楽器とは異なる楽器を吹いての挑戦を含んだ参加だったのです(ウケますね)。古町十字路に立つ吹連役員の恩師K先生も、これには驚いたと仰っていました。


西高ユニフォームで出場
(ユニフォーム代未納の人は急いで顧問に出して下さい。)


 初代ドラムメジャーは01010さん。1999年の西関東大会でも同じメジャーバトンを振りました。当時と比較して編成規模は半分以下ですが、17人のプレイヤーを率いる勇姿は2年前の夏と何も変わりませんでした。超小編成バンドながら、楽器を外部団体から調達したり、野外練習場所を確保したり、初心者マークでのドキドキ楽器運搬&楽器ケースが後部バンパーにめり込んだり(!)、濃密な船出だった記憶があります。ちなみにこのバンド結成時から始まった「校旗」への記名(じゃんけん大会で勝者から記名)ですが、この結成時の古町パレードだけは誕生日順でした。(伴って前出の01017さんと01018(私)は12月生まれなので、この学籍番号になりました)


結成メンバーと顧問のK先生 19人での楽団の船出でした


 
2002年、この夏は1999年度のコンクール課題曲の一つ、"行進曲「K点を越えて」"を演奏して古町を歩きました。1999年時の西高吹奏楽部3、2、1年生が全て卒業したこの年に、この全世代と現役生による「K点」での出場は実に感慨深いものがありました。現役当時に何度も弾かれたコンクール地区大会の分厚い壁でしたが、その反動とも言える「再結集」という形で古町パレード出場に繋がったのは、卒業生一人ひとりの「矜持」、そして新しい時代を創る真っ最中の現役生の「熱気」の賜物と言えるのではないでしょうか。よい時代に、曲と、機会と、そして大切な仲間に出逢えました。


古町に向かうバス乗車前に記念撮影

 初のオリジナルユニフォームを製作し、本場高知のよさこい鳴子(大学の部室に眠っていた再利用品)を持ち、足りない分の鳴子は割りばしとカメラ用フィルムのケースとでん六豆で作ったオリジナル鳴子(小物打楽器)で賄うなど、「ものつくり」や「ものいかし」はこの年から始まりました。


四国から直輸入の鳴子
(その後、古町パレードでの必須アイテムになりました)


 古町パレード後の新潟市体育館への帰路の信号待ち等で、楽団うちの大学の名称からか、一般客や出場高校(出場順がうち大の前のことが多い)の生徒さんから話しかけられることもありました。気軽に声を掛けてもらえるのは、この楽団の強み「名前勝ち」ですね。お決まりの「うちの」と「大学」の由来を聞かれたり、逆にかつての恩師が赴任した高校の生徒さんには恩師の近況を聞いたり、パレード以外にもいろんな接点があるからこそ年々魅力が高まっていく古町パレードでした。

 そしてこのパレードで記すことを欠かせない出来事は、後に楽団の牽引役となる02003さんが入団(入学)したことです。


校旗は「新潟市内野」表記  翌年から「越後内野」になります


 2003年、西高現役生23名に参加協力を貰い総勢37名の大パレードが実現しました。演奏曲は前年に続く「K点」と、(たしか)現役生が選んでくれた「風になりたい」。個人的に、この「風になりたい」をテーマ曲にしたマーチング(こちらもパレードメイン)を行うバンドに参加していたこともあり、思い入れの強い曲でした。このバンドは毎年10月に岡山市で行われるマーチング・イン・オカヤマに参加する奏者・観客・地元民等々から成る毎年恒例・期間限定活動のバンドで、これに性格を類する楽団うちの大学はこのバンドに学ぶ点も多くありました。

 西高は先述の"特別枠"の1999年夏(私が3年生)を最後に、県マーチングフェスティバル(規定演技・自由演技)から撤退していました。マーチングへの取り組みは縮小されていましたが、基礎練習はしっかり行っていたようで、パレード練習は一発でピッタリ合う仕上がり具合でした。西高屋上での練習の写真が残っています。屋上にはポイントが打た(塗ら)れており、それは私の現役生時代より前から基礎練習用に使われていたものです。現役当時、基礎練なので横一線に一連の動作を繰り返すわけですが、たまにパートごとに短いフォーメーションを組んで披露する、というものがあり、これが結構面白いのです。スクエアやトリックにアレンジを加えて、逆スピンやリアターンなど、部員それぞれの独自の感性やユーモアが活かせるのもマーチングの奥が深いところです。実際に楽器をつけると実用的ではなかったりするのですがね。この頃の現役生も同じような練習をしていたのでしょうか。


西高屋上での練習風景(雨上がりのようですね)


西高音楽室にて 校旗に記名したら床に写っちゃった(37名分)
母校に落書き?!必死に消してる様子(こういうトコがUラン大学)


 私個人は当時大学四回生で最後の夏休みだったのでよく憶えているのですが、この夏は全国的に雨が多くて涼しく、梅雨明けが無いない夏でした。よって天候も気になったところですが、練習含め曇天ながら何とか天候はもってくれて助かりました。ちなみにそれ以前・以降も古町パレード絡みの雨の記憶はありません。意外と「晴れ楽団」なのかも知れませんね。
 この2003年で古町パレードの開催は10回目となりました。そのことに気づいた直後、第10回を記念した非公式エンブレムを作成し、出場の一般3団体で装着しました。(後述しますが)バッジのように、小さくても何か共通のものを装着すると、急に連帯感や親近感が湧いてくるから不思議ですね。
イリ―ジウムさん(出場団体)からの「安全ピンこっちにも下さーい」の声が、いまでも耳の奥で残っています。


大和新潟店前通過中
これが計6回のパレード中のベストショットだと思います
(どなたに撮ってもらったのかは不明)


 この夏の出来事に記しておきたいのは楽団員の02004さん、03006さん、03009さん、03012さん、03019さんの同期グループ(便宜上、当ページではこのグループを5人の学籍番号を足した「14050」とします)のこと。
 前(02)年に当時西高現役生の02004さんが古町パレードに初めて参加し、他4人(当時、同じく現役生)はこの(03)古町パレードでの初参加でした。私が99年度(00年春)卒業、99年度の1年生(例えば02003さん)が卒業したのが01年度(02年春)。そして上記「14050」の5名が西高へ入学したのが02年度(02年春)。(私が3年時の1年生の)02003さんと「14050」のみなさんは、2002年春にちょうど入れ替わりでの西高卒業・西高入学になるので、直接吹奏楽部で時を共にした時期はありません。つまり、私や02003さんの99年度を共にした世代と02年西高入学の02004さんの世代(グループ「14050」)が繋がるには、その間を結ぶもう一つの世代の存在が必要なわけです。奇しくも02003さんと(「14050」グループの)02004さんの学籍番号は連番ですが、その間には無数もの人や時間そしてドラマがあるはず。これが「世代を楽団で結ぶ」ということの具体的事象であり、実際にそれが起きていて楽団は継続しているという事実に気付いた時、その驚きと歓びは言葉では言い表せないものがありました。
 また今回のように記念誌を編集するような機会が無ければまず意識することも無いのですが、楽団員の西高出身者の「世代」や「同期」を分類・体系化できる記録や資料は全く無く、正直私の現役時の99年度世代最終(01年度[02年春]卒)以降の「世代」「同期」は実際のところよくわからないのです。
そこで強力な基準点となるのが、この「14050」グループなのです。02004さんは02年古町で参加(→02年時に高1だったんだ)、03006さんと03009さんは03年春の新曲勉強会に参加していた(→03年は高2になる春だったのか)、03019さんは05年古町後の楽団打ち上げに参加(→05年には既に卒業してたんだなぁ)など、5名もいることで時系列を伴った数々のシーンでの記憶や印象があるもので、そこから「14050」以外の多くの楽団員が記憶や想い出の中で「14050」の5名を通して繋がっていきます。
 例えば編集執筆中に「○○さんって西高何年度卒だ?」と疑問が出た際に、確か03012(「14050」)さんが○○さんに敬語を使って話していたな→03012さんの先輩だから〇〇さんは02か03年度卒か、とか、ある年の古町パレード練習の休憩中に現役生の△△くんが「オレ、◇◇先輩(「14050」)のことが好きなんすよー」とか言ってた記憶(それをなぜそのタイミングで私に伝えたのかは今もって不明ですが)によって、△△くんは◇◇さん(「14050」)の後輩で03年以降の西高入学だったんだな、とか。こんな具合に展開や消去法で派生して繋がって関係性が判明し、大体の「世代」や「同期」が紐づけられていくのです。その後またすぐに忘れてしまいますがね。
 そして02004さんが創立六周年記念誌に寄せてくれたメッセージによると、「同期13名全員が楽団うちの大学に入学」旨の表記があります(これは楽団が誇れる特筆すべき快挙かも知れません)。楽団(西高OB・OG)と西高(現役生) の結びつきは、この2003年頃が最高潮だったとも言えるようです。事実として翌2004年の西高現役生の新入団は1名。これは逆に読み取れば、前年度までの入団楽団員(現役生含む)によって、04年古町パレードの編成は充足したという証左でもあります。と、様々な角度から楽団の現在地を知るための丁度いい(失礼ながら)バロメーター?観測気球?の作用もしてくれたのが、この「14050」の5名でした。
 古町パレードが開催されなくなった2007年(第7期)以降は、「14050」からの複数人での活動参加はありませんでしたが、現在も縁あって何らかの形で楽団との関わりを持ち続けてくれています。即ち、どんな状況の楽団にあっても、いつまでも「14050」のような自然体でニュートラルな立場での「かたまり」の存在があることは、楽団にはとても心強いことなのです。
 ちなみにこの年か、それとも翌年か定かではありませんが、私が古町パレード後の打ち上げ前の一時帰宅時に、青山ジャスコ前で赤信号に引っかかっていると、偶然にも前方には横断歩道を渡る「14050」のみなさん。私がバイクだったから気付いてもらえたのか、同時に挨拶。おそらくパレード後に白山駅乗車の青山駅降車でガストもしくはバーミヤンでの打ち上げコースだったのでしょう。私の心の中では「そうだよね、やっぱり高校生も打ち上げするよね、野菜も食べてね、俺は食べるよ」と思ったか思っていないか、20年以上経った今でも、こういう偶然の1シーンは鮮明に記憶に残っているものですね。


初の青系&ポロシャツ形状のユニフォーム


 2004年、この年からパレードに旗手を設けます。旗は「永代旗」として作られ、バンドを先導(プラカードとDМの中間位置)する旗手には、01005さんが起用されました。旗を取り付ける棒は全長185cmあるのですが、自家用車を使った楽器運搬時に積む機会を逸し、最終的にバイクで運ぶことに。とは言ってもバイクの全長とほぼ同じ長さ、結構苦労しました。ただでさえ目立つ愛媛ナンバーのバイクで更に注目を浴びる棒運搬、旗だけに傍からはどう見えていたかはわかりませんが明らかな道路交通法違反ですね、時効ですね。そしてネタでも何でもなく、想像通り現在では拙宅の物干し竿になっています。

 この年の演奏曲は演歌の「北酒場」。演歌でパレードするのも異色ですが、毎年着用するユニフォームが変わるバンドも珍しいのではないでしょうか。この年で3着目のオリジナルユニフォーム(初の楽団色のブルー仕様)となりました
「北酒場」のイントロ冒頭「テレッ テレテレッ」に着目し、翌年はこの「北酒場」とこれに類似したイントロ冒頭「テレッ テレテレテレッ」の「ムーンライト伝説」の2曲で古町を歩こうと思い付きました(もちろん翌年にはすっかり忘れていました&忘れていてよかった)。


本番前の練習風景 陸上競技場側はうち大の定位置になりました

 この夏の古町パレードは27人編成、引き続き西高からの現役生に助けられますが、西高からの新入団はひとまず落ち着いたこともあって、他5回のパレードに比べると出来事としては薄い印象があります。しかしながら個人的には社会人1年目の夏であったことや、この先の学生中心から社会人中心の楽団へ移行出来るか否かの過渡期を控えていたこともあり、このパレードの成功で確かな手ごたえを感じた夏になりました。


まさに「青一色」 ユニクロさんにはお世話になりました


 2005年、日頃楽器を吹いていない奏者にはタンギング地獄に苦戦したことが想像される、この夏の古町パレードの演奏曲は歌謡曲「魅せられて」。02003さん編曲バージョンでした。某有名大学の芸術学部に進学した02003さんは学業で音楽漬けの毎日であったことでしょう、楽団ではこの編曲に始まり翌年には古町音楽祭エントリー用の作曲も手掛けることになります。楽譜に合わせて編成を組むのではなく、編成に合わせて楽譜を書き下ろしてくれるので、奏者の技量や編成内容・規模を考慮した上での最適化した譜面によって、バンドの底力を最大限に引き出してくれるわけです。「うち大サウンド」の基礎として、そして楽団にとって大きな力を入れた夏でした。

 この夏のユニフォームは黒色。背面は校章をアレンジしたデザインが入っていました。先日、記念誌制作の絡みで、おそらく10数年ぶりに「2005古町パレード写真集」(業者が撮影してくれた古町パレード中の販売用の写真見本を閲覧用に1冊のアルバムに編集したもの)を開いて気付いたのですが、この黒ユニフォーム、楽団員が装着する校章(単位)バッジがとても良く映えていました。ユニフォームのようなインパクト効果は期待薄でも、ほんの小さなアクセントであろうとも、楽団員全員がバッジを装着しているとそれは圧巻ですね。取得単位数に伴って各人の輪の色が違っているのも、実に「映え」ています。こんなに手軽かつ身近に連帯感を醸成するツール・バッジがあって良かったと思います。ちなみにこのバッジ導入は前々年の2003年で、敦賀から新潟に向かうカーフェリーの日本海上で生産されました。二等大部屋客室で「何作っているの?」と尋ねてきたおじさんがおり、「記念にどうぞ」と校章バッジを差し上げました。意外や意外、校章バッジの受領第1号は、フェリー同乗のお客さんでした(造幣局関係者では無かったようです)。


参加者が記名する"活動校旗"に対し、これが"永代旗"です


いつもは他団体との乗合なのですが、
この年はうち大専属バスだったようです(バス怖~い)


 この古町パレードでは、4代目ドラムメジャー(DM)に03019さんが就任します。前年・前々年の第3代DMの03004さんはトロンボーン(最前列)での参加ということもあり、練習中やパレード開始前に両者間でDMについてのアドバイスやレクチャーを仰ぎ・与えていたことが印象的でした。こういう小さなシーンの積み重ねが、パレードそして楽団を創ってくれました。




全身を黒でキメて、マーチングバンドらしく仕上がっています

 個人的に古町パレードの最大の魅せどころ、即ち現代で言う「映える」と思う場面は、恩師K先生が役員として立つ古町十字路(万代橋へ続くメイン通りを渡る交差点=信号待ちの車両も含め観客が多い)なのですが、実はパレードの締め方(終わり方)も大きな見どころの一つなのです。そう、それは今夏を閉じ来夏へ向かう最後の動作と音で締める瞬間なのです。この古町パレードではDMの03019さんが、「魅せられて」の1番の終わりでぴったりマークタイムに入れ→間奏繋ぎ(5小節)→2番に入る1小節前の後半2拍・tuttiのシンコペーション部分でビシッと締めてくれました。そして隊列もそれに応え、誰一人吹き残る・叩き残ることなくバチッと演奏停止、残響だけがパレード終点の地・古町5番町から古町4番町へ吹き抜けていきます。フィールドフォーメーションやドリルのように丁寧に作り込まれたマーチングとは違い、場面や状況である意味機転やアドリブが求められるのがパレードです。この締めの瞬間を最前列から目撃し、このDM、本気で天才だと思いました。あの夏から約20年迎える現在にあっても、「魅せられて」の妖艶な曲調・雰囲気を最大に引き伸ばす曲の締め方、即ち前進の停止および演奏停止ポイントはここしかないと言い切れるほどの完璧さ、その感動と余韻に浸れます。


校旗に「全力楽団」の文字と硬派学生が描かれました
(学ランの黒?Uランですけど)



 
2006年、朝から最高顧問K先生から「今日は大快晴、いつもの古町十字路で楽しみに待っているよ」とメールをいただきました。私は行進用黒ズボン(スラックス)を買いに、しまむらへ向かっていました。その道中、あれこれ思い巡らすこと多数。この夏の古町パレードは出場までの道のりは特別に長く険しく、また楽団結成から丁度5年後の創立記念日(8月20日)に行われることから、思い入れもひとしおなパレードでした。

 前年、牽引役の一人が楽団から離脱したことで団内には衝撃と動揺が広がります。期が新しくなってもその影響は色濃く、同じ轍を踏まないためにあれこれ思案します。夏は着実に迫ってきていて、さて今夏の古町パレードはどうするかと考えた時、運命(天命)に任せようと思い付きました。それは従来のように楽団の牽引役(数名)だけが参加者を集めるのではなく、古町パレードに出たい楽団員全員が参加者を集めるというもの。これを「ボーダー制」と称し、(創立六周年記念誌の記録によると)参加希望者1名を1ポイント、参加保留(検討)者1名を0.5ポイント、設定ポイントを25ポイントとして、この希望者と保留者の合計ポイントが設定ポイント(25P)を超えた時点で準備開始、基準日(7月1日)までに設定ポイントに達しない場合は古町パレード出場自体を断念するというものでした。結果、希望者19名(19P)+保留者15名(7.5P)で合計26.5P、辛くも設定ポイントを突破。基準日直前の大逆転劇で古町パレードへの出場が決まりました。

 前年の反省を生かすため、というか何から手をつけ始めるべきか手探りの中での出発です。限られている人財をフルに活用し、引率役の集合体である引率チームを組織しました。前出の「古町パレード写真集」2006年版によると、引率チームは以下の構成でした。

01015 企画PC / 練習計画策定
01012 企画(練習) / 練習会場確保
04006 企画(楽器) / 楽器調達
06001 企画(楽譜) / 楽譜管理
02011 制作 / 5周年企画 [本番参加出来ず]
03025 制作 / ポスター
02001 制作(待機)
03011 制作(待機)
01006 制作(待機)
04007 制作(待機)
01018 渉外 HD / 吹連関係 ヘルプデスク
02003 音楽監督 / 編曲 企画班支援
02004 会計 広報 / 掲示板広報

 「PC」とは何の略なのか今となっては不明ですが、おそらくProject Captainで実質リーダー。そこに01年から古町パレード連続出場中(01年結成時は西高1年生)で、西高吹奏楽部では部長経験もある01015さんを大抜擢(ちなみに01~06古町パレード全出場者は4名)。西高出身者・非西高出身者で構成されているあたりが、適材適所に人財をつぎ込んだ「総力戦」を感じます。気になる「制作(待機)」は、結成5周年に関係した楽団シールの切り抜き等、自宅作業であったかと思います。本番前日の西コミ練習で、全員ハサミ持参でシールを切り抜いている写真が残っており、ここでも「総力戦」の一場面を伺わせます。


業者さんが撮ってくれた写真の購買見本を製本したアルバム

 そして私個人として出来る事は何でもやりました。吹連や楽団員との連絡や情報の収集・履歴残置は「ヘルプデスク」として楽団メールで一元化管理し、母校西高からの借用でも不足する楽器は地元・内野中学校(当時既にマーチングから撤退)に頼み込み、中学生と一緒に埃まみれの楽器棚から必要楽器を探し出したりしました。毎年製作者が変わるユニフォームは、前年のゴタゴタを再発させないために私の直轄(単独)で作ることにしました。出来るだけ安く仕上げるために学校町(高校生相手で安価)の卸店へ直接買い付けに出向き、せっかく作るならと統一の形状の中にも楽団員個別(自分で決めた)のニックネームと座右の銘(好きな言葉)を好みの色で表記するアイディアユニフォーム。連日の猛暑の中、予備含め40着以上をアイロンプリントで作成しました。ここで大いに活用されたのはパソコンです。その後の楽団関係の情報や製作のデータ化処理が一気に進む切っ掛けになったことは言うまでもありません。でもたまにフリーズしたり、適時にデータが取り出せなかったり、この楽団っぽい危うさに常にヒヤヒヤしっぱなしでした。


暑さはまだセーフ、アイロンの重さが手首を壊しました

 ちなみに紙ベースでの記録が残っていたので、出場各楽団員の座右の銘(好きな言葉)を大公開します。

(↓不思議なことに、スマホ閲覧だと「♥」が赤くなっていました。特別な意図はありません)

01006 溢れるパッション!!
01011 JONATHAN
01012 marron parfait
01015 粋
01018 旋風
02001 BTsax◎
02003 コーヒーゼリー
02004 I ♥ music I ♥ うち大 ~Bond MYRY~
02008 ドМ!?
03002 ぁりがちょ
03004 I LOVE U
03005 明日は明日の風が吹く☆
03008 Slow Step
03009 I ♥ music I ♥ うち大 ~Bond MYRY~
03010 人生修行中
03011 ENJOY!
03012 I ♥ music I ♥ うち大 ~Bond MYRY~
03014 Step by Step
03015 Happy
03019 I ♥ music I ♥ うち大 ~Bond MYRY~
03023 I ♥ children
03025 のんびり
04002 魁
04005 あっさり
04006 Rouge's Message☆
04007 Corridors of breeze☆
06001 No Reason
06002 サボテンの育てかた
06003 好きです西新潟
06004 NO МUSIC NO FUTURE
06005 喇叭魂
06006 くら魂
06007 アイシテル ウチノ
06008 Hi-Timez
06009 楽笑
06010 楽々

 どれも素晴らしい座右の銘ばかりでしたね。特筆すべきは学籍番号順に並べると、03019さんと03023さんは西高出身ながらも現役時期は重なっていないことにも関わらず、共に「 I ♥~」で連続、06005さんと06006さんは所属団体が違うにも関わらず「楽器名 + 魂」で連続(共通)、06009さんと06010さんも異なる所属団体ながらも「楽○」で連続しているあたりが、示し合わせたかのような奇跡的なコラボレーションを起こしていました。そして、全36名で2名(のみ)が食べ物(しかもピンポイントにデザート系)を座右の銘(?)にしていますが、この2人が翌年に楽団長と副楽団長に就任することも興味深いところです。野菜も食べてね。

 演奏曲は「宇宙戦艦ヤマト」と02年から5回連続演奏の"行進曲「K点を越えて」"。もちろん「ヤマト」は02003さんによる編曲バージョンです。パレードなので当然インストゥルメンタルですが、2番の歌詞「誰かがこれをやらねばならぬ、期待の人が俺たちならば」に引率チームはどれだけ勇気づけられたことでしょうか(私だけ?)。そしてうち大パレードの定番曲となった「K点」、実はK点とは毎夏最高顧問のK先生が待つ古町十字路地点の事だったのかと思ったり。この夏もこの「K点」を越えられる(通過できる)喜びを、かみしめながら。

 ボーダー制での成果もあり、この古町パレードに集まってくれた楽団員は、新潟西高吹奏楽部卒業生、新潟国際情報大学吹奏楽部有志、敬和学園大学ブラスバンド部有志、新潟ウインドオーケストラ有志と、総勢36名の大編成「多団籍楽団」となりました。中にはマーチング初体験の奏者もいて、パートごとでの基本動作のレクチャーや初々しく西コミ体育館内を外周した思い出があります。こういう場面って非常に印象が強く残るものですよね。

 ついに迎えた古町パレード本番。大快晴、事前準備は万全、編成規模は言うことなし、奏力は古町パレードにグッドサウンド賞あったら狙えるんじゃね?ってくらいの過去最高の仕上がり、そしてドラムメジャーには2年ぶり3度目となる第3代DMの03004さんを迎えて最強の布陣を整えました。合唱部卒業生の06007さんを記録撮影者として起用し、パレードに帯同して数々のシーンを写真に残してくれます。
 新潟市体育館前で例年通り陸上競技場側に陣取ったうち大は、他の学校・団体に遜色ない規模の練習演奏で大会出場の生徒さんたちを乗せたバスを出迎え、また大会終了後は古町9番町へ出発するバスを送り出しました。一般団体はパレードの後方なので出発時刻も遅く当然こうなるわけですが、バス内からは手を振ってくれる生徒さんも。車内では「あれってうちの大学じゃない?」「本物の大学じゃないんでしょ?」「滑り止めの大学どころか、大学自体が滑ってんじゃん」なんて会話が繰り広げられているかは知りませんが、古町パレードでは着実に知名度を上げてきた「うちの大学」。この時間が心地よいですね。おまけに、地元の中学生が団体名のプラカードを持って各団体の隊列を先導してくれるのですが、その名称から観客が二度見、三度見するプラカード「うちの大学」を掲げる生徒さんの心境や、如何に。


いきなり「うちの大学」 そりゃ笑ってしまうわな

 私たちのバス移動は上越市を拠点とする Joetsu Brave Bucking Horseさん(はね馬さん)との乗り合いでした。移動の車中、どういう流れからそうなったのか、両団体で"行進曲「K点を越えて」"を一緒に歌いながら古町9番町へ向かいました。それは紛れもなく「共演」。マーチングを愛す団体同士でこういうことが出来るのも、古町パレードの魅力の一つです。この中南米的なノリのバス乗車に、運転手さんもさぞかし驚いたことでしょう(でも道は間違えなかったです)。私は補助席でした。

 うち大のパレード開始直前、事前に仕込んだパート1st奏者4名によるシンプルなフォーメーションを披露し、この夏の掛け声(合言葉)「発進は4、停止は8、動くUCHIDAI2006」を楽団員全員で唱和していざパレード開始!先述の通りマーチング初心者の楽団員も多いため、ドラムメジャーによる笛での号令「ピーッピッ」(4拍間)は「発進」(動き出し前の予令)で、同「ピーッピッ・ピッピッピッ・」(8拍間)が「停止」の予令であることを楽団員全員で周知・共有するための合言葉でした。これを掛け声にしてしまうあたりが、うち大ブランドここに極まれりといった感じですね。


1stプレイヤー4人で簡単なフォーメーションを披露

 「宇宙戦艦ヤマト」の選曲は、大当たりでした。モール内いっぱいに響き渡るブラス音とパーカッションの打音、特に「笑顔で答へ」の後2小節間のバッテリーによる乱れ打ち、直後一時G.P.っぽくなる瞬間の残響が堪らないのです。そう、フロア全体に響き渡って客席の奥に吸い込まれていった規定演技での演奏のように、モール区間はそれを再現させるような夢舞台でした。そしてモール内は軽度なサウナ状態で、時よりタイミングよく開く沿道のお店の自動ドアから漏れ出る冷房は、ひとときのやすらぎ(オアシス)なのです。
そして本当のことなのですが、18年経った今でも耳をすませば、あの圧巻で大迫力の「宇宙戦艦ヤマト」が聴こえて来るようです。そう、36名を熱くする夏の日差し、隊列を吹き抜ける風と共に。


モール全体に鳴り響く宇宙戦艦ヤマトは鳥肌ものでした

 古町モール内での別イベントの影響か、この年は例年より停止と発進が多く、特に停止演奏の時間が長かったように記憶しています。過酷な残暑、常に変わる前方の動向、そこに吹連役員からの指示誘導も加わる状況。これを冷静に対応するドラムメジャー03004さんの機敏なホイッスルと巧みなバトン捌きは、実にお見事でした。
 この頼もしい03004航海班長のおかげで「宇宙戦艦ウチノ」の乗組員全36名は、イスカンダル星ならぬツクエナメタル星「古町」での演奏・行進を無事完遂。このパレードで自ら船長帽子の着用を希望してくれたのは03002さんで、そのお姉さんの学籍番号は03015。その番号差は「13」で、ヤマト指揮官の沖田「十三」艦長に。内野の地に縁のある03002さんと03015さんの双子艦長によって、「宇宙戦艦ウチノ」は2006年の夏を完結しました。

  
宇宙戦艦ウチノの艦長帽子とW艦長によるWピース(「2」)
(15×2)+(35×2)=100
「やっぱり(戦艦)ウチノ、100人乗っても大丈夫!」


 「必ずここに帰ってくると」の新潟市体育館に「帰還」後、1期生の結成メンバーである01001さんと01009さん、そして2期生の02002さんが出迎えてくれて、全員での集合写真にも入ってくれました。この他にも前日の練習で激励に来てくれた前出の01017さん(第2代DМ)は、当日は仕事の都合で来れないものの「職場が古町なので仕事着の下にユニフォームを着て応援しています」と言ってくれたり、どの夏のことかは忘れましたが楽団員では無いながらもかつて共に音を奏でた西高同志は「北光社(老舗書店、2010年閉店)の前で観てましたよ」とメッセージをくれたり、こういった接点は本当にありがたいものです。その時その場で活動する楽団員だけが楽団を動かしているのではなく、過去に、遠方に、外部に楽団うちの大学を創ってくれる人がいることを実感します。
 前年の反省を踏まえて掲げた第6期スローガン「動くUCHIDAI2006」、実際に「何か」が動いた2006古町パレードでした。


ラスト古町パレードで有終の美を飾りました

ラスト古町パレードから丁度20年後の2026年8月20日(創立25周年記念日)、この年の春に休館した新潟市体育館のペーパークラフトを通信課程で配布しました
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 古町パレードは翌2007年、マーチングフェスティバルの会場が朱鷺メッセに移ったことから開催されず、会場が再び新潟市体育館に戻った後も復活することはありませんでした。理由の中にはチャーターバスの問題や終了後に配布される飲料の経費があったとか聞いた憶えがあります。その他にも諸問題はたくさんあったことでしょうが、楽団はOBバンドの夏も含めて計7回、個人的には計10回もパレードで古町を歩けたことやそれに付随する一連の経験は、とても貴重な財産になりました。またこの場に乗じて強気ですが、99年に与えられた"特別枠"が、またそこからの「心残り」が後付けかつ形を変えながらも「楽団」の結成("枠"だけに当時私は「十九(19)」歳)や古町パレード計7回参加によって、少しはその意義や目的が果たされた、と言ってもいいでしょうか?

 その延長に、まさに蛇足ですが、ちょっと自慢出来ることがあるのです。かつて「マーチング王国」であり、マーチングの強豪校・先進校揃いであった内野地区。内野小、内野中、日本文理高、新潟西高、そして僭越にも楽団うちの大学。先述したマーチングフェスティバルのプログラム冊子後半に記載されている過去の出場校・団体(古町パレード含む)の一覧を何となく見ていたら、当該大会に上記5校(団体)による内野勢が1つも出場(参加)していないのは第3回(1990年)大会のみで、手元にある第19回(2006年=古町パレード最終年)まで、ほぼ全ての年の大会に内野勢が出場しています。1999年を最後に新潟西高、2000年を最後に内野中と日本文理高がマーチング大会から撤退しています(文理高は後に復帰、現在は代表常連校)。特筆すべきは、偶然にも翌2001年から内野中・日本文理高に入れ替わる形で「うちの大学」が古町パレードに参入し、内野勢に仲間入りかつ期せずして古町パレードでの「内野(うちの)」の地名を継承します。2004年には小学校バンドフェスティバルが同日同一会場で行われることになったことから、古町パレードでの内野勢「内野小」と「うちの大学」の2団体出場が実現しています。
 うちの大学校歌第二番には、「その名を受け継ぐ歴史は内野」の歌詞があります。2001年から計6回、楽団うちの大学は、かつての「マーチング王国・内野」の地名を背負って、内野勢を代表して古町を行進していました。



 そしてこれだけは記しておかなければと思いながら、ここまで来てしまいました。
2001年から2006年まで、古町パレード後の新潟市体育館の正面階段で撮影した集合写真が残っています。それは「はいっ!うちの大学のみなさんお待ちしていましたっ!」と、毎年元気よく出迎えてくれた割腹の良い撮影業者のフォトライフさんが撮影してくれたものです。その古町パレードの集合写真、欲目でも贔屓目でも出鱈目でも全く無くお伝えしたいのですが、どの夏の写真も全楽団員が自然体でのいい笑顔をしているのです。厳密に言えば2004年の02003さんだけ顔が隠れてしまっているのですが、その隠れた笑い顔すら想像できてしまうほどにみんながとにかくいい顔で笑っています。肖像権等の関係でここにアップできないのが非常に残念で悔しいくらい、本当に素敵な6枚の夏の集合写真が残りました。



 
2007年、あれ?2007年は古町パレード開催されなかったんじゃなかったっけ?その通りなのですが、後日(余)談としてちょっとした蛇足で文章を締めたいと思います(とっても個人的なことですが)。

 2007年12月、サッカーJ1最終節・千葉対名古屋の試合で千葉市に3人集まりました。1人は私、1人は私の3つ下の後輩(楽団員)で西高では私と現役時期を共にしていない間柄、もう1人は前出の北光社の前でパレードを応援してくれた私の2コ下の後輩。現役当時もその後もほぼ接点の無い3人が、私を除く2人にはおよそ興味が湧かない遠方のサッカーチームの試合で集合しちゃうのですよ。これだけでも十分におもしろいことなのですが、3人での共通の想い出や話題は全くと言っていい程無いにも関わらず、試合後の電車移動や居酒屋でのおしゃべりは止まらず。そこに出てくる話題は近況はもちろんのこと、時期を重ねてはいない西高のこと、恩師のこと、部活のこと、演奏曲のこと、パンの樹や万作弁当のことなどなど、まるで3年間を共にした同期のように。想い出はその時間を共有してたから話して楽しい・聞いて嬉しいということは確かなことですが、共有していなくても持ち寄る想い出から新たに生まれる想い出というものもあるようです、むしろ私が持っていない2人の想い出をずっと聞いていたいくらいの。そして古町パレードにも三者三様の想い出があるわけで、時代の幸運でしょうか、この古町パレードを経験できた何ともちょうどいい時代でした。

 最終電車の近い時間帯、名残惜しくも3人は解散して私はこの日の寝床にと、ある楽団員が住む首都圏内のアパートを訪問。そこで唐突に目に飛び込んで来たのは、部屋の壁に貼られた2005年の古町パレードの集合写真。何で?何でなん?この楽団員、決してそういった想い出を振り返るようなキャラ像では無いのに、吹奏楽、特にマーチングには無関心だったのに、そしていわゆる「ダミー」や「旗手」での参加が多く「つきあい」の延長で参加しているみたいだったくせに、大切にしてくれている古町パレードの想い出。これはね、反則ですよ、不意討ち過ぎる大反則ね。前記の2人のことも相まって、恥ずかしながら心がキュンとなって、目頭が熱くなる感覚を抑えられずにはいられませんでした。他愛のない出来事や一瞬の気付きによって、こういう心が揺り動かされることがあるからこそ、全てが報われた気持ちになれるんですよね。

 駄文ながらこうして文字にしてみると、マーチングや古町パレードがあったからこそいまに生きていることの多さに気付かされます。それは楽団だったり、縁だったり、情熱だったり。だからこそ、古町パレードは夏を懸ける・駆け抜けるに相応しい楽団の大舞台でした。
 もう想い出の中でしか古町パレードは生きていません。そしてあの夏はもう二度と来ませんが、夏が来ればふとした瞬間にあの夏の出来事、旋律、場所、そして人が蘇る、だからこそいつまでも夏が楽しみ。これはとても幸せなことだと思うのです。

 いつまでも憶えていたい、マーチングと古町パレードと楽団と、夏の大切な想い出です。

   


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